歴史

その遺徳を今に伝えて。
豐烈神社は、水野家の歴史とともに歩み、地域の人々の信仰を受け継いできました。藩祖・水野忠元公の顕彰をはじめ、古式騎馬打毬などの伝統文化を守りながら、今日まで受け継がれてきた歴史をご紹介します。
沿革
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文政四年(一八二一)
遠江国浜松城主水野忠邦公が、藩祖水野忠元公を城内に祀り、朝廷より豐烈霊神の称号を賜った。
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弘化五年(一八四八)
忠邦公の子忠精公山形移封に際し、山形城二の丸内に豐烈神社を遷座した。
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明治三年(一八七〇)
忠精公の子忠弘公近江国朝日山に移封の際、豐烈神社を山川(茨城県結城市)に遷座した。
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明治十三年(一八八〇)
水野藩士勧請して、豐烈霊神様の御分霊を戴き、現在地に豐烈神社を建立して香澄町(旧三の丸地内)の氏神様とする。(現在氏子戸数約二千戸)
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明治三十五年(一九〇二)
水野三郎右衛門元宣の銅像建立。
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明治四十一年(一九〇八)
神社庁令により、香澄町地内各所に鎮座していた八坂神社・稲荷神社・山神社を合祀する。
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大正二年(一九一三)
山川の本社を、ここに遷座併合する。
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大正十年(一九二一)
水野藩中興の祖水野忠邦公(英烈霊神)を合祀する。
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昭和三年(一九二八)
神輿を新調(昭和天皇御大典記念)昭和五年神輿蔵建設。
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昭和十八年(一九四三)
水野三郎右衛門元宣銅像は戦争のため供出
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昭和二十一年(一九四六)
水野三郎右衛門元宣墜像建立
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昭和三十年(一九五五)
明治維新に際し山形市を戦火の災害から救った水野三郎右衛門元宣、山形防衛戦で戦死した大久保伝平知敬以下二十三柱を合祀する。
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昭和三十三年(一九五八)
香澄稲荷神社を境内に建立、御本殿から分祀する。
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昭和五十六年(一九八一)
御本殿改築工事落成。
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令和四年(二〇二二)
水野三郎右衛門元宣墜像、経年劣化により銅像建立
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令和八年(二〇二六)
参道改修工事
水野忠元公について
水野忠元公は、徳川家康公と親戚関係にあり、水野家発展の礎を築いた人物です。武勇に優れるだけでなく、誠実な人柄と優れた統率力を備え、多くの功績を残しました。
その遺徳は代々の水野家に受け継がれ、文政4年(1821)、水野忠邦公により、藩祖として朝廷より「豐烈霊神」の称号を賜り、顕彰されました。
豐烈神社は、その御神徳を仰ぎ、水野忠元公への感謝と敬意を後世へ伝えるために創建された神社です。現在も地域の安寧と繁栄を祈るとともに、水野家ゆかりの歴史や文化を未来へ受け継いでいます。

水野三郎右衛門元宣像の記
水野三郎右衛門元宣は、天保十四年(一八四三)遠州浜松に生れ藩主のお国替えにより弘化三年、四才のとき山形に移住し、二十二才の若さで家老職を継いだ。文武両道にすぐれ家中藩士の信頼を一身に集めた。明治維新の政変の際、藩主は京都に居って不在のため、藩の運命は弱冠二十六才の首席家老元宣の双肩にかかっていた。慶応四年春薩長軍(官軍)は仙台から山形に進軍し、山形藩は官軍の命を受けて庄内征伐のため長崎口まで進撃したが、庄内軍の不意の襲撃に合い損害を受けて敗走、戦火は山形市街地の目前に迫った。元宣は領民を救うため苦心惨憺、身を挺して奔走し、山形市民を兵火の災害から救った。
山形藩は当初官軍についたが、薩長軍の参謀世良修蔵の横暴さに憤慨した仙台、米沢の両藩の呼びかけに応じ、東北各藩とともに奥羽同盟を結成し官軍に反抗することとなった。しかし間もなく各藩相次いで降伏することとなり、新政府から反逆の罪に問われた際元宣は「山形藩の責任はすべて自分一人にあり、他の者には寛容の御処置を」との嘆願書を提出し、他に犠牲者を出さないよう努力した。翌明治二年五月二十日、藩の責任を一身に負い二十七才を最期に長源寺庭において刑死した。
明治維新当時の山形藩は五万石であったが財政は苦しく充分な武器の備えもない状況の中で官軍と隣接大藩との板ばさみにあい山形藩をいかに保全するか元宣の苦悩は大変なものであった。明治維新改革後山形市が米沢・新庄の大藩をさしおいて県庁所在地となり今日の繁栄あるのは元宣が身をもって難に殉じ、山形の街を兵火の荒廃から救ったためであり、まさに山形市民の大恩人と称すべきである。
元宣の遺徳を後世に伝えるため旧藩士を始め市民有志により明治三十五年銅像を建立したが昭和十八年第二次世界大戦完遂のため供出されたため昭和二十一年に郷土の彫刻家服部牛山の作による塑像が再建された。塑像建立から七十五年余りの歳月により老朽化が進み令和三年豐烈神社創建二百年の節目に伴い全国から募金を行い和四年塑像と同型の銅像を再建したのである。


香澄倶楽部について
先人の志を、今に伝え、未来へつなぐ。
香澄倶楽部は、旧山形藩士ゆかりの人々の親睦と交流を目的として昭和24年(1949)に発足しました。
旧山形藩士のつながりを受け継ぎながら、豐烈神社と水野家ゆかりの歴史や文化の継承に取り組み、水野三郎右衛門宅址碑の建立や戊辰戦役殉難者二十四柱の合祀、慰霊祭の開催などに携わってきました。
昭和50年頃に自然休会となりましたが、平成元年(1989)に再興され、現在も先人の歴史や精神を学び伝える活動が続けられています。
